島の歴史、闇に葬られた黒糖による生き地獄
~家に流るる罪苦を洗い清め 自由自在となれ~
こんにちは。SOTAと申します。
三六九の儀の体験を執筆させて頂くことになりました。
私は鹿児島県の奄美群島のなかの、ある島で生まれました。ざわわ ざわわと さとうきび畑が広がる とても のどかな島です。風にゆられる さとうきび畑、さとうきびから作られる 甘い 黒砂糖、のんびりとした平穏な南の島…
しかし島には、
そのようなイメージとは真逆の悲しみの歴史がありました。
昨年、NHK大河ドラマで放送された「西郷どん」西郷隆盛の奄美大島での生活が描かれていました。
そこで、薩摩藩代官所による熾烈な黒糖の取締りのシーンがありました。
私は、テレビを見て涙を流し震えました。
奄美群島(北は奄美・喜界島から南は与論島まで)は、1609年に薩摩藩により琉球から分断され、薩摩藩の直轄地となり、税として黒糖を納めなければなりませんでした。黒糖の徴収は、藩から派遣された代官と地元の島役人(琉球国の系譜を継ぐ家)により行われていました。
私のご先祖は島役人でした。
維新を達成しうるほどの莫大な資金がどこから生み出されていたのか?
黒砂糖は、商人の町 大阪で 高額で取引され、まさにドル箱だったのです。島民は黒糖の売買を許されず、米などは薩摩から運ばれ、とても島民には買うことのできない金額で売られていました。そのため、島民は食糧として、毒抜きしたソテツの実のデンプンをおかゆ代わりに食べて飢えを凌いでいました。このような奄美群島における薩摩による支配体制下において、島役人であったご先祖が、薩摩と琉球の板挟みで苦悩していたこと、同じ琉球の民を苦しめ、恨みを一身に引き受けることは、容易に想像できました。
子孫の私は、何をするにしても恨まれている感覚。
子供のころから、大人になっても頻繁に風邪をひき、こじらせて気管支炎になったり、30代で2度も肺炎で入院しました。あまりにも風邪をひくので、免疫に異常が無いか精密検査を受けるも、異常なしの結果…
何かがおかしい…
今思えば、子孫の繁栄は許されないほどの強い想念?
これが「先祖の因縁」であったと知るまで、長い年月がたちました。
「道の島のトリプル・スタンダード」
複雑に絡み合った薩摩と琉球と先祖の因縁。
まず、ご先祖と薩摩の関係について書いてみたいと思います。
琉球本国に飛び石のように繋がる奄美群島は、「道の島」と呼ばれています。琉球国は、中国・清を宗主国として、冊封の関係にありました。
先祖代々一族は、島役人として鹿児島へ上国し、時には琉球の役人として、那覇や清へ渡っていました。これは、薩摩藩が道の島について、琉球・清国・徳川幕府の三者に対して、トリプル・スタンダードを取っていたためです。
どういうことかと言うと、
・琉球に対しては、道の島は薩摩の直轄地
・清国に対しては、道の島は琉球国
・幕府に対しては、琉球は支配下にあるが、道の島は薩摩の直轄地ではなく、琉球国
つまり、薩摩藩は、清国と徳川幕府に対して、「道の島が薩摩の直轄地であること」を隠していたのです。幕府が鎖国制度を堅持しているなかで、この事実がばれてしまうと、日中関係にヒビが入ることになり、まずい事態になります。
そのため、清から冊封使が来航する時は、琉球の役人として那覇へ琉球から進貢船を派遣する時は、唐通事(通訳)として清国へ何事もないかのように、島役人が中国へ渡っていました。
サトウキビについては、薩摩藩直轄地となった初期では、年貢として扱われていませんでした。サトウキビは、手をかければかけるほど良く育ちます。逆に、手を抜いたとしても、最低限の収量が見込める作物でもあります。
ご先祖が鹿児島へ上国の際、島でのサトウキビ栽培を認めてもらうための請願書を上申したことがありました。しかし、島の代官所を通して国元に伺いを立てることが筋であるものを、代官所を通さず上申したため、不届きであるとして、即座に役を解かれたのです。のちのち サトウキビが、幕末にかけて大きな影を落とすことになるとは、この時は誰も予想できなかったと思います。
ご先祖は、鹿児島では藩の家老、島津助之充(すけのじょう)に目をかけられ、上国の際は親子で囲碁の相手に家に招かれるようになり、脇差(小刀)を授かるなどの関係にありました。島役人として、鹿児島、琉球、大陸中国へと渡り、薩摩藩の手足となり、働いたご先祖、そのような中、徳川幕府中期に、250以上もの諸藩において、薩摩藩が髄一の貧乏藩と言われるまでに転落する事件が起きます。この事件は、島津家により、長い間伏せられ、鹿児島で知られることになったのは大正時代になってからでした。
島津家にとって屈辱「自害の因縁」
徳川家と島津家の3大因縁と言えば、1つ目が 関ヶ原の合戦、2つ目が 明治維新、そして、三つ目は、江戸時代中期に起きた事件であり、島津家にとって屈辱の因縁となります。そのことについて、書きたいと思います。
もともと、徳川、島津両家は、源氏になります。鎌倉の御家人、惟宗忠久(これむねただひさ)は、源頼朝に推挙され、薩摩の守護地頭職(初代当主)となり、島津を名乗りました。江戸時代、徳川幕府にとって、政権を固めていくうえで、外様大名の薩摩は、関ヶ原の合戦以降も生意気で目障りな存在です。徳川幕府は幕藩体制を強化(主に外様大名の弱体化)するため、河川の治水工事や築城などを行わせる御手伝普請(おてつだいふしん)を、全額 または 一部を 藩の負担で行わせていました。そして、その御手伝普請が、薩摩藩に命令されることになります。それは、氾濫を繰り返す濃尾平野の木曽三川(木曽川・揖斐川・長良川)の治水工事について、全額を薩摩藩負担で行わせるものでした。
薩摩藩では、御手伝普請を引き受けるか否か、大もめに…
・御手伝普請を断り、幕府との開戦を唱える強硬派
・藩の存続のため、御手伝普請を受け入れる派
協議がまとまらないなか、家老の平田靭負(ひらたゆきえ)が強硬派を説得し、幕府の命令を受け入れることになりました。
「幕府には腹立たしいこと極まりないが、血気にはやって、源頼朝公から続いた島津家に、万一のことがあってはならない。我々が異国の民を助け、後世に渡り、薩摩隼人の誉を語り継がせようようではないか」
これにより、平田靭負を総奉行とする薩摩藩士、約1000名の武士達が、刀を工具に持ち替えて、大工事を遂行することになりました。工事は幕府の執拗な妨害を受けました。完成した堤を破壊されたり、工事の追加や計画変更もあり、予算・工期は大幅に超え、莫大な借金をかかえました。平田靭負は、金策に奔走。黒砂糖の専売権を担保にして大阪の商人から融資を受けました。
この治水工事で薩摩藩士51名が、幕府への抗議で自害、また、食事は一汁一菜の御布令が出されるなど、劣悪な労働環境のなか、赤痢が蔓延し、33名が病死。幕府への抗議の切腹はお家取り潰しになることから、平田靭負は事故死として報告しました。平田靭負は、工事の完成を見届け、総奉行として責任を取り、自害しました。宝暦治水事件と言われるこの事件は、島津家によって伏せられました。
大正9年、鹿児島市内に建てられた薩摩義士の碑により、地元でもこの事件が広く知られるようになりました。平田靭負の祖父は、島津助之充でした。助之充の娘が私の母になります。もしかしたら、ご先祖が囲碁の相手に家へ招かれた時、子供の頃の靭負の母がいたのかもしれません。
言葉にならない一族の因縁…
幕府のもくろみ通り、薩摩藩の力を完全に削ぎ、破たん寸前まで追い込んだ御手伝普請。
このことが、黒糖地獄へと突入する直接的な原因となったのです。
祈りの島「女神官ノロと霊能者ユタ」
これまで、ご先祖と薩摩藩の関係について書いてきました。
ここでは、時代を巻き戻して、琉球国のお話を書きたいと思います。
1609 年、薩摩軍が琉球国に侵攻し、支配しました。関ケ原の合戦からわずか、9 年後のことでした。その後、400 年の節目となった 2009 年には、島の縁者が集い、 戦いで亡くなったご先祖のお墓参りに行きました。薩摩藩政下の島役人は、主に琉球国の家系の者でした。
ご先祖は、琉球首里王家の按司(あじ)と呼ばれる譜代で、子孫が島の統治を命じられました。琉球第二尚氏 尚真王の時代になると、琉球国の役人の妻は、ノロ宮明(クメイ)と言われる女神官・シャーマンになります。琉球国の役人である夫と女神官の妻による祭政一致が行われていたのです。
ノロは祈る人・宣べる人を表し、宮明は敬称になります。シャーマンとは、シベリア東部や極東、満州で話されているツングース語で「呪術師」を 意味するそうです。ノロによる霊的能力を背景にした国家整備は、琉球第二尚氏 尚真王により確立されました。ノロは、国家の安寧と守護、五穀豊穣を祈りました。
尚真王の妹、月清(つききよ)が、沖縄久高島の斎場御嶽(せぇいふあうたき)において、聞得大君(きこえのおおかみ)となる儀式が執り行われ、聞得大君を最高神女として、琉球諸島各地にノロが配属されたのです。
南西諸島には、ユタとよばれる霊能者も多くいます。ユタは個人からの相談をうけ、祈祷、口寄せ(御霊との交信)などを行います。現代で言えば、ユタは民間、ノロは国家公務員の位置づけになります。
島は自然信仰で、御嶽(うたき)を聖域としてお祈りします。御嶽には神様が鎮座する社殿は無く、依代となる岩や木があります。実家の庭にも、岩があり、帰省した時には、お線香をたて、お酒を供えてお祈りしています。
お祈りをする祖父母や両親の背中を見て育ってきた私にとって、今でも祈りは生活の 一部です。
三六九の儀を受けてからは、朝に、カムナガラミチを唱えて、祈願するように心がけています。最初は形からだけでもと思い、カムナガラミチを唱えてみました。できない日もありますが、カムナガラミチを唱えると、 不思議と心が整います。
日々のお祈りを続けるほど、神様とのつながりが太くなり、さらに塩盛りを合わせることで、大難が小難へと物事がスムーズに進むようになりました。
那覇世(なはんゆ)と言われた琉球王国の平和な時代も終わりを迎えることになります。そして、時代は、薩摩藩に支配される大和世(やまとゆ)へ権力者は古今東西において、シャーマンの存在を恐れ、危険分子であるとみなします。そして、ノロ、ユタも弾圧を受けることになるのです。
薩摩藩による琉球侵攻で敗れて…、美しくも悲しい島唄
琉球国は、東南アジア・中国・日本など広域で中継貿易を行う独立国でした。中国の明・清と冊封関係(中華思想による名目的な君臣関係)にありましたが、政治的、軍事的に拘束を受ける属国とは異なっていました。1609年、徳川幕府は薩摩藩に対して、琉球征伐を許可します。琉球征伐の表向きの理由は、琉球国が薩摩藩から借りた借金によるものでした。しかし、薩摩藩の真の狙いは南海の利権獲得にありました。
借金の発端となったのは豊臣秀吉でした。秀吉は朝鮮出兵(文禄・慶長の役)に備えるため、薩摩藩と琉球国に対しても軍役と、名護屋城(佐賀県唐津市)築城の夫役(労働)を言いつけます。琉球国は強い武力を持たないことから、薩摩藩主・島津家久により、薩摩藩が軍役を持ち、名護屋城築城の夫役については、琉球が 銀子(金銭)により援助することになりました。そして、琉球国は、その銀子を薩摩藩から借りることになったのです。
借金の返済については、琉球国の三司官・謝名(じゃな)親方が窓口でした。三司官は、王を補佐し、行政を取り仕切る役職でした。謝名親方は才力の持ち主と言われ、対日強硬派でした。謝名親方は、薩摩からの使いの僧侶に対して、借金返済の都合がつかないと曖昧な返事を繰り返しました。そのことで、薩摩では、”お金を取り戻すことは困難である”と話が大きくなったとあります。
1609年、琉球征伐として、島に軍船75隻がやってきました。港内はびっしりと軍船で埋め尽くされ、旗は風に吹かれてひるがえり、鎧と剣は日に輝きを放っていました。船上から大声で、「琉球国は薩摩から琉球王のために銀子を借り入れた。その返済方法について、三司官の謝名親方から話が進まず、音沙汰もない。このため、やむを得ず、道の島を攻め取り、本琉球を攻め打つことになった。おとなしく降参せよ。」と命令が下されました。
これに対して、島の統治を任されていたご先祖は、「もし、謝名親方に非礼があったとしても、借金の始末についての一役人の話に関することである。それを盾にとって降参したとあっては、われら臣下としても国王を侮ることになる。勝手にわれらが要求どおりに島を明け渡すわけにはいかない。速やかに帰国されたい。」と、声高らかに叫びました。
しかし、「詮索無用である」と薩軍全軍は鉄砲で打ちかけ、上陸しました。ご先祖は戦に備え、浜辺で守り固めていた琉球本国の援軍と島民とともに、敵兵に向かい果敢に戦いました。一時は、波打ち際へ押し返すほどでしたが、百戦錬磨の薩軍に圧倒され敗れました。
その後、琉球本国において、国王・尚寧は降伏し、薩摩藩の支配下になることを認めました。
そして、女神官ノロ制度も崩壊することになります。ノロ、ユタに対して禁止令が出され、違反すると遠島処分や処刑されることになったのです。ある時期から、家系図にノロの役職の記録が無くなりました。
10年ほど前、縁者と一緒にノロ神様の処刑場へお祈りに行きました…。涙が溢れてきました。体制を揺るがす存在として、権力者から目を付けられるシャーマン。隠れノロ、隠れユタとなり、その能力を隠しながら、生きていくことになります。ノロの公的地位は、最終的に明治政府の琉球諸禄処分法により、消滅することになりました。
薩摩藩が借金地獄となった宝暦治水事件以降、道の島三島(奄美・喜界島・徳之島)での砂糖総買入制が導入されました。島では稲作や、サツマイモでさえも栽培が許されなくなり、サトウキビ栽培を強制され、徹底的に搾取される植民地となります。
那覇世では琉球国の役人として戦った一族は、大和世では薩摩の役人として、黒糖の部署で、藩代官所と島民の間に入り、黒糖を搾取する立場になりました。
島には美しくも悲しい島唄があります。
薩摩の役人は、裏声や高音を多用する島唄を聞き取ることができません。
そのため、島唄は島民同士のコミュニケーションの手段となったのです。
島民は黒糖を抜き取れば死罪、なめればむち打ちの刑
数年前、久しぶりに 鹿児島市内にある玉龍山麓の島津家墓地を訪れました。とても閑静な場所です。ここから、薩摩藩の財政改革について書きたいと思います。
薩摩藩の財政は、まさにV字回復そのものでした。その前に、少し横道にそれますが、薩摩藩の主要な施設の位置関係のお話をしたいと思います。ここの玉龍山一帯には、江戸時代まで福昌寺がありました。寺は島津家の菩提寺でした。明治の廃仏毀釈で取り壊され、跡地に市立の高校が建てられました。私と妹と弟、そして父も、この高校を卒業しました。偶然、同じ母校になったと思っていました。
しかし、「先祖の因縁」を知ることになり、実は島津家からも、その因縁に気づくようにメッセージを受けていたことがわかりました。
島津家墓地は広大な敷地で、意外にも出入りが自由です。放課後は応援部や吹奏楽部などが練習しています。墓の門をくぐると、ただならぬ何かを感じる. . .と、訪れたことのある人は一様に言います。
応援部が「北辰(ほくしん)斜め」という応援歌を練習していました。この歌は、旧制第七高等学校造士館(鹿児島大学文理学部の前身)の寮歌に由来します。その昔、造士館は薩摩藩の藩校でした。「北辰」とは北極星のことで、鹿児島市内では、北の空の仰角(水平線からの高さ)31.36゜に北極星が位置します。「北辰斜め」の意味は、鹿児島は北極星を高く仰ぎ見るような地ではなく、斜め前に見えるくらいに、南の地にあるということを表しています。
地図上では、島津家の鶴丸城跡地から南北に引いた線を31.36度の角度で右に傾けると、福昌寺跡地、島津斉彬を祀る照国神社、西郷隆盛ら西南戦争の戦没者を祀る南州神社が、ほぼ線上に位置しています。島津家は鎌倉から薩摩へ本拠地を移してから現在に至るまで、変わることなく輝き続ける北極星を意識しているように思います。
墓地には、琉球出身者のお墓もあり、縁者の方がお参りに来られたのでしょうか、植物が供えられていました。
その近くに、薩摩藩家老・調所広郷(ずしょひろさと)のお墓もあります。調所は琉球奉行も歴任しました。
道の島の黒糖政策を強力に推進した人物です。
このころ、薩摩藩は大阪商人から500万両の借金がありました。
利子だけで年50万両あったと言われています。
藩の年収は10数万両。実質、破綻していました。
調所は、藩主・島津斉興から財政改革を一任されていました。
そして、借金棒引きに等しい禁じ手を使います。
調所は借金をしている商人たちを呼びました。古くなった証文(借用証書)を書き直すので、必ず証文を返すことを約束に、証文を預かりました。調所は、預かった古い証文を、商人たちの目の前で燃やしました。商人たちは 茫然としました。そして、調所は書き換えた証文を商人に渡しました。その内容は、500万両の借金を年2万両ずつ250年間、無利子で返済するというものでした。完済の年は 2085年になります。しかし、明治4年に廃藩置県が行われ、藩が無くなり、返済は終了しました。
商人は武士を斬ることができません。調所は商人たちに言いました。
「私を殺すなり、生かすなり、好きにせよ。」
商人たちは、貸したお金を踏み倒された形になりました。そして、黒糖政策では暴利を上げることになります。奄美三島(奄美・喜界島・徳之島)総買い入れが始まり、島民は奴隷となりました。のちのち、沖永良部島、与論島も総買い入れが始まります。
島民は黒糖を抜き取れば死罪、なめればむち打ちの刑となりました。島役人はサトウキビ栽培の監視にあたりました。
黒糖は高値で取引されるため、代官所役人の黒糖の横領が行われ、追い討ちをかけるように島民を苦しめました。この頃、納税軽減の嘆願は 一切認められなくなっていました。
薩摩藩は、ほとんどの借金を踏み倒し、黒糖での暴利、その他にも、偽金づくり、琉球密貿易と合わせて、300万両もの蓄えを持つことになりました。調所は、幕府から密貿易を糺され、藩主・島津斉興を守るために、自害しました。そうして、薩摩藩は、破綻状態から一気にV字回復することになったのです。
明治の世になっても島民は黒糖を搾取されました。明治政府は砂糖の自由売買を通達しました。しかし、明治維新後も独立国状態であった鹿児島県は、「大島商社」を設立し 黒糖の搾取を続けます。黒糖の搾取はおかしいと、島民たちは鹿児島県庁へ直訴しました。しかし、投獄されたり、無理やり西南戦争に従軍させられる者もいました。西南戦争の2年後、大島商社は解散しました。鹿児島の士族のために、西郷隆盛は大島商社の設立に加担していました。政府の方針に反するため、目立たないように計画されていたのです。
尊信と怨嗟とカルマの昇天「許す」
「先祖の因縁」を知ることなく、一生を終えることもあり得るなかで、私は体調不良という形でその存在から影響を受け、知ることになりました。私は数年前まで、理由がわからずに、家系がとても重たいと感じていました。そして、死んでも絶対にこの家の墓には入らない!と思っていました。これまで、ご先祖や島の歴史を振り返りながら、とても強いカルマの影響を受けていたと改めて感じました。
子供のころ、何かの影響を感じてはいたものの、それが何なのかわかりませんでした。
そのことを母に言いました。
「お母さん、僕は何かがおかしいと思うから、
大人になったら東京に行って、治してもらうね」
母は、言いました。「何を訳の分からないことを言っているの!」隣りで聞いていた妹も言いました。
「お兄ちゃん、頭、大丈夫?」
わかってもらえない寂しさがありながらも、きっと、どこかにわかってくれる人がいることを魂では感じていたのだと思います。幸運にも30年後に、大上先生と道子先生とのご縁をいただくことになりました。そして、ご先祖が島民を苦しめていた…「先祖の因縁」を知ることになり、藁をもすがる思いで三六九の儀を受けるべく、東京へ向かいました。
100%、先生方は受け止めてくださいました。
私はとても安心しました。
そして、
- 先祖代々の御霊とお墓、縁ある御霊たちを救済する
- 苦しむ島民の御霊たちを救済する
- 民族のカルマ 琉球と大和の因縁の解消
の三六九の儀を執り行っていただきました。
儀の後、神様が見せてくださった世界を、先生方から教えていただきました。
驚きました!
話の内容が、自分の家系図に記録されている出来事と同じでした。
私は明らかとなったカルマをテーブルの上に並べていると、ご先祖は悪い事をしていた…と感情が大きく動きました。
私は先生方から大切なことを教わりました。
カルマの法則によって現れる出来事は、
良い悪いを超えて、
いつでも関係を清める機会を与えられていること
時代が変われば常識も変わること
善悪を超えて出来事として受け止めて、カルマを解き清めていくこと
そして、
与えられた任務を遂行するしかなかった時代に、
ご先祖様は役務を尽くしたことを誇りに思っておられます。
ご先祖様は多くの徳も積まれています。
私は救われた気持ちになりました。
私は色眼鏡をかけて、良い・悪いとジャッジしていました。
那覇世では、琉球国の按司として島の統治を任されて尊敬され信頼されたこと大和世では、島役人として島民から収奪し怨まれたこと。善行も悪行もカルマとしてそれぞれが宇宙に記録されています。そして、それらは、プラス・マイナスで相殺されることはありません。
儀のあと、私は出来ることは全てやり切ったという清々しい気持ちになりました。
たとえ、何も変わらなかったとしても、受け入れようと思いました。
そして、儀の後、偶然とは思えない、
説明のつかないことが、次々と起こりました。
母は甲状腺機能低下症だったのですが、治りました。
また、従姉妹が首のヘルニアを患っていたのですが、儀の3日後に治っていると医師から告げられ、その後、完治したのです。
私自身も体調を崩すことが、ほとんどなくなりました。
40代の今の方が、20代・30代の頃より、ずっと体力がみなぎっています。
そして、父が叙勲を受章しました。
島でのお祝いは、三味線や太鼓で大盛り上がりになりました。そのとき、お祝いの会場にキラキラしたような清らかさがありました。でも、その理由はわかりませんでした。お祝いには、親戚以外に会ったこともない方々が150人以上来られました。その方々のご先祖様4〜5代を遡れば、間違いなく私の一族に苦しめられていたはずです。
私は帰りの飛行機のなかで、気が付きました。
その苦しめられた島民の子孫の方々が、お祝いをしてくださったこと。
私は涙があふれました。
許された…
私は、そのことについて先生方々へメッセージを送りました。
そして返信をいただきました。
「許される」
まさに、最上のカルマの昇天です。
過去を水に流し、互いを敬い、互いを讃え合うこと、美しい光景です。
カルマが清められた…
私はまた泣いてしまいました。
神様の愛は海のように広くて深い…
そして、私は、これからご先祖のように、祈りによる国づくりをしたいと思いました。
この目で見ることはできませんが、かつて私たちと同じように肉体を持ち命をつないでくれた先祖代々の御霊たち、そして、つながりのあった御霊たち、私たちの温かな祈りで、苦しむ御霊たちが救われ、清まりますように。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
※この体験談は、2020年に執筆されたものです。
あなたのお話・お悩みをお聞かせください。