ご先祖様の重い重いカルマを一人で背負ってきた父
静岡県富士市にお住まいの香苗さんと大上先生・道子先生の出会いは9年前。
富士市は、【源平の合戦】で有名な富士川があり、戦国時代には数々の戦場となった土地なのです。その重いカルマの土地で生まれ育った香苗さんの、三六九の儀から始まったカルマを清め続け、困難から抜け出して夢を実現するまでの体験談です。
私が、大上院先生、道子先生に初めてお会いしたのは9年前です。当時、私は長男という新しい命を迎えて、家族で幸せな日々を過ごしていました。両親もとても喜んでくれていました。ところが実家では、解決方法の見えない出来事が次々と起きていて、両親は生活することが精一杯の状況でした。
でも、その問題に目を向けても進む方向が分からない、解決できるかわからない、だから、目の前の出来事に対処して生きていくことしかできなかったのです。そうした両親の苦労を感じながらも、私もどうしてあげることもできない日々が続いていました。
父は30代後半で会社を立ち上げてから、順風満帆のスタート切り事業を展開させていました。しかし、不景気の波が押し寄せてきてから、次第に会社の経営も回らなくなり始めました。それでも、未来を信じて、借金をして立て直しを図ろうと懸命に働いていました。
その頃、私の4人兄弟の末の妹が大学進学をするにあたり、家庭内でもこれまでは伏せてきたお金の話題が飛び交うようになりました。学費や下宿費をどうするか、仕送りをどうするか、奨学金で何とかなるか、会社の借金もある、お金が回っていくか‥。そんな中でも妹は努力の末、都内国立大学に進学が決まり、お金の心配を抱えながら家を出たのでした。
父は、会社の経営がうまくいかず、日に日に飲酒量が増えていきました。もともと出かけて人と会うことが好きな性分でしたので、夜も飲みに出かけて日が変わっても家に帰らないことが毎日のように続きました。その上、夜十分に眠れている様子はなく、朝早くに仕事に出かけてまた夜中に帰ってくる。十数年前、子どもが生まれてから一度やめていたタバコもまた吸いはじめ、吸う量も徐々に増えていく。家族みんなが、父の身体を心配して声をかけても、聞く耳は持たない。段々と家庭内でも大きな声を出して怒ることも増え、ピリピリした空気が漂っていました。
そうかと思えば、私の前では「お母さんを幸せにしてあげられないのが悔しい」と涙を流すこともありました。きっと父もこのままではいけないと気づいてはいるけど、どうにもしようがない状況だったのでしょう。
その頃、母の知人から、「あなたたちのご先祖様の影響で私の顔がこんなに腫れてしまった。とにかく早くご先祖様を清めなさい。一緒に東京の先生の所へ行って。」と母に連絡がありました。突然の連絡と出来事に母もよく理解できないまま、まるで蜂に数十箇所も刺されたように腫れあがった知人の顔を治すために、大上先生と道子先生のもとに新幹線に乗って急遽行くことになったのです。これもご先祖様と神さまの導きでした。
母が先生方のところから帰ってくるとすぐに姉と私は呼び出され、「いい?よく聞いて。私たち動き出すよ!ご先祖様のため、ご先祖様が苦しめた人々のために、お祈りを始めるよ。あなたたちの世代、この子たち孫の世代にも、ご先祖様の作ったカルマは流れ続ける。今、その流れを変えられるなら動き始める。一緒に動いてほしい。」と、まっすぐな目と揺らぎない言葉で伝えられました。私は、話の内容を理解したというよりも母の真剣さを受け取り、今が大きく動く時なのだという直観と共にその日から「祈り」を始めることにしました。
私たちの住んでいる大地には、富士下方五社と呼ばれる五つの神社と浅間神社が存在するのですが、ご先祖様と関わりの深い神社であったことを知り、母と共に毎週末早朝に参拝することになりました。父も母に連れられるようにしてついてきました。表面では、しぶしぶとした態度であっても、きっと父自身も神様にすがる思いであったのでしょう。
各神社では、
「ご先祖様方、生前は大変ご苦労様でした。
私たち子孫に真実を教えてくださったこと、感謝申し上げます。
また、無念の思いのまま苦しめて続けてしまった大勢の御霊さん方、
大変申し訳ございませんでした。神様の愛と光で霊界に導いていただけますように。」
と労いと感謝と謝罪に廻る日々でした。
私の祖父から七代前のご先祖様は、小長井山城の上(コナガイヤマシロノカミ)と呼ばれ、当時、介錯(※)の役目を賜っていたそうです。戦国の時代には、関東と関西を分ける要の地として強軍の影響を受けてきたため、厳しい処罰や敵方の見せしめもあり、介錯という役目も必要かつ、重要でした。
(※介錯‥切腹する人のそばに付き添っていて、その人が刀を腹に突き刺すと同時にその首を斬って、死を助けてやること)
そして、人の命を途絶えることに携わるので、信心し、仏の供養も怠りなく修業していたのでした。
介錯に使われた刀も、神より賜るご神器であり、神のご加護と罪を清めるためにご神事にも修業していました。
当時は家をあげて祭り事をしていたのですが、代が変わる度に、心、精神が堕落し、修業を怠るようになり、「自分たちが偉く、自分たちがすごい」と勘違いをし、本来の神との繋がりも薄れていったのです。その頃から、処刑されて亡くなった方々が霊界へ行けなくなり、特に恨み、無念、生きることへの執着のある者たちがこの世に残り、無念を晴らそうと、土地の人々、小長井家の子孫に影響を及ぼすようになりました。
実際に父の事業を立ち回らなくさせたのも家系のカルマの表れであり、霊界に還れずに苦しむ御霊たちからの念があり、早く本来の役目に気づけ!というご先祖様からのメッセージでもありました。私たち家族は、道子先生を通してのご神言(ご先祖様の話)を初めて聞いた際に、疑いではなく、確信が持てたのでした。
これまで家系に、自分たちは“首切り族”だと面白おかしく伝えられてきた話、家に刀があったという話、代々男性が短命であった事実とそれに気づいた祖母が熱心に信心し続けてきた姿、親族が作った家系図に小長井山城の上(コナガイヤマシロノカミ)が記載されていたことなど‥これまで、真実を隠すように絡まり合っていた紐がスルスルと解かれていく感覚でした。
また、母が、なぜ私は父と結婚したのか謎で仕方ないと言い続けてきたのですが、この家系のカルマを解くお役目があったのだと知ると腑に落ちたようでした。(両親は前生でも夫婦で、今生では夫婦共に人々に御恩返しをする使命があるそうです。)
そんな折、また早急に儀を受ける必要が出てきました。父の背骨のお清めでした。家系のカルマの上に、父個人の過去生からの影響も重なり、傲慢な意識が刻まれていて、母と私たちにも影響が出ているとのことでした。
家族は、父が「怒るか、怒らないか」「いいと言うか、ダメと言うか」で何事も判断するようになっていました。父を気にしながら生きる家族となっていたのです。しかし、家系のカルマと父自身の背骨を清めていただいた後から、徐々に父に変化が起こっていきました。
まず変わったのは、父ではなく母、姉、私でした。これまで、父には何を言っても聞く耳を持たない、怒る、怒鳴る、体調は悪化する‥それに耐えられず、父を何とか変えようと必死であった周りの家族が、父個人だけの問題ではなかったことに気づき、受け容れ始めたのです。
父の肩には、7代前から続く家系のカルマが重たくのしかかっていたのです。その目に見えないカルマの重圧に、父個人ではどうにもしようがなく、誰にも気づいてもらえず、分かってもらえず必死に生きてきたことをようやく知ることができ、父に影響を及ぼしていた背景に目を向け始めたのです。そして、父に対して、怒りではなく慈しみの思いを向けるようになりました。また、この環境下で4人の子どもを育て生き抜いてきてくれた父に、改めて感謝の想いが膨らむのでした。
母や姉、私からかける言葉も変化し、父は段々と柔らかくなっていきました。まるで、これまで自分を敵から守るためにがっちりと装備していた見えない鎧を、ゆっくりと下ろし始めたようでした。家族の前でも何を言われるかと恐れ、威嚇していた様子から、子どものように無垢で優しい、素の父が出てくるようになったように感じています。鬼のように怒ってばかりだった父が、今は目頭が下がった優しいおじいちゃんになりました。
9年が経ち、ご先祖様から流れてきた家系のカルマの重圧から解かれた父は、今は自身が作ってきた今生のカルマと病に向き合い始めています。私たちも父が父らしく生きていけるよう家族で応援しています。当時の父の張りつめた様子、緊迫した家族の空気を思い出すと、母の直観と行動力ですぐに儀を受けて、ここまで清め続けてこられたことに心から感謝しています。
カルマを背負っていた父、そのカルマを解くために結婚した母。2人の長年に渡る大変な苦労と儀を受けてからの変化を改めて振り返ると、自然と涙が出てきます。両親のもとに生まれてきたことに感謝です。
そして、ここに生まれると決めた私たちも、勇気ある存在だ!と誇りを感じています(笑)
見えない世界の存在に驚いた私、世界が新しく見えた瞬間
実家のご先祖様のカルマを解き始めた時から、私の生き方は変わっていきました。
これまで、何事においても、まずは自分の力を伸ばすことが未来につながると信じていた私は、勉強もスポーツも仕事も、理想を描いて遊ぶ間も寝る間も惜しむほどに、努力を重ねて生きてきました。また人のお役に立つためにも、やはりまずは「自分の力」をつけることが大事だと思って生きていたのです。
努力によって道は拓けると、『自分』の力を信じていた私でしたが…
家系のカルマを解き、ご先祖様との繋がりを実感し始めてから、『自分』とは何だろう?と思い直すようになっていきました。
ご先祖様との繋がり?
見えない世界? 見える世界?
見えない存在? 御霊たち?
私が見てきた世界は、ほんの一部?
私は、誰だろう?
これまで自分が知る世界の中で懸命に生きてきたのですが、概念がガラガラと崩れて、私の中に新しい世界の見方が生まれていきました。
私の父方母方双方の祖母ともに、とても信心深く、毎朝毎夕、お仏壇の前で手を合わせてお供えする姿を知っていたので、幼い頃からご先祖様の大切さは肌で感じていました。両親もお盆、お彼岸のお墓参りは欠かさず、私も祖母宅に行くとまずお仏壇にお線香を立てて、ご先祖様にご挨拶する習慣が身についていました。
ご先祖様を大切にできていると思っていた私は、儀の際に、ご先祖様が亡くなってからも苦労や苦難をずっと引きずっていて、子孫に助けや救いを求めていたことを知った時に、「まさか‥自分のご先祖様が代々苦しみを抱えていたとは‥」と受け入れがたい驚きを感じました。でも、その後、ご先祖様の声と家系の現実が繋がったことで、一生懸命供養してきた行為が「ご先祖様を大切にできている」という自分の解釈や満足ではなく、ご先祖様の真の声に意識を向け始めたのです。
また、見えない存在に未知の恐れを抱いていた私は、道子先生と初めて話をした際に驚きの会話をしたことを覚えています。
「もし、誰かが目の前で困っていたら、あなたは助けてあげますか?」
「はい」
「では、ご先祖様(見えない存在)が目の前で困っていたら、助けてあげますか?」
「はい‥」
「見える私にとっては、見える人も見えない人も同じなんですよ。」
と話す先生のまっすぐな瞳を見て、私の中に一筋の光が走りました。これまでは自分が理解可能な範囲で、人の役に立ちたいと制限していたことにハッと気づきました。その場では理解はできていなくても、ご先祖様が困っているのであれば力になると決めた瞬間でした。
当時0歳の赤ちゃんがいる生活でしたが、毎朝のルーティンに“祈り”を取り入れ始めました。初めは教わったままに、祈りの言葉、言霊、般若心経を唱え始めました。また台所の棚の上に、小さな神棚と空間を用意し、水・米・塩をお供えし始めました。ご先祖様への感謝の想いと労いと、かつてご先祖様が苦しめていた縁ある御霊たちに謝罪の想いで、とにかく続けていきました。
清めていくうちに、近所に、かつてご先祖様が関わっていた処刑場の跡地があると知り、すぐに祈りをあげに行きました。その跡地に行くと、鳥肌が立ち、身体がどっと重たくなった体感と頭痛が襲ってきて、亡くなられた大勢の御霊たちを清めるためにも、祈りを続けなくてはと‥、改めて感じたのでした。この時はまだ、子孫としての責任感と見えない存在への怖さから自分を守るために祈りを続けていた感覚でした。
赤ちゃんがいる中で、祈りを続けることの大変さを感じた時もありましたし、できなくても仕方ないよねと思う時もありましたが、当時、一番応援してくれていたのは赤ちゃんだった息子の存在でした。元気に動き回る息子でしたが、毎朝、祈り、言霊、般若心経を唱えている時間は、私に抱かれてとても穏やかでニコニコしていたのです。赤ちゃんは、神さまのところからこの世界に生まれたばかりの存在で、神さまと見えない世界と繋がり続けています。その子が落ち着いている様子をみると、祈りが届いているように感じられました。
そして、大上先生にも「自分自身が祈りを届けるのではなくて、神様を通して、祈りを届けてもらう」のだと教わりました。そこから私の中に、神様と一つになって祈るという意識が生まれたのでした。神様と仲良くなったようで嬉しくなり、自分がやらねばという責任感からくる力みも緩んでいきました。祈ると身体が温かくなり、私にとって心地がよく、続けていきたい時間へと変化していきました。
「祈り」には「神の意に乗る」という意味が重なっているそうで、私の祈りを神様に届け、神様の導きによって清めていただくのです。それを知り、私は独りよがりな願いや不安を解消するための願いではなく、「神様と一つ」になって祈れているかどうかを意識し始めるようになりました。
いつしか、祈りは廻って、過去の苦難から解放されて清まっていったご先祖様や御霊たちが、今度は私たち子孫を見守ってくださる強力な存在となっていくことを体感するようになっていきました。
毎朝、子どもと一緒に高台から朝陽の出る方角に向かい、住まわせてもらっている大地とご先祖様に感謝の祈りを捧げていると、まぶしい光が差し込んできました。その光が日に日に優しく広がっていくのを感じました。大雨が降った際には、遠くの雲の上に、ご先祖様のいる世界、神様の世界とも感じられるまばゆい黄金の光の一帯を見せてくれました。
他にも、空を見て語りかけているとカラスが「カーカー」と鳴いて応えてくれたり、群れが一斉に飛び立って注意を促してくれたりもしました。また、玄関のドア前にカラスの大きな羽が一枚だけ落ちていたこともありました。
こうして鳥や動物を通して、神様の存在をわかるように感じさせてくれる出来事が続いていきました。
神様やご先祖様が見守ってくださっている実感を持てるようになっていきました。
また、不思議な話ですが、ある日のこと、山の中で田舎暮らしをしている友人宅に遊びにいきました。畑が広がる中に、ぽつりとお墓が立っていました。まだ見えない世界をよく知らなかった私は、有名な墓と聞いて、どうか清まるようにとその場で般若心経を唱えました。その時小さな息子がそこにあった石を一つ手に持ったのですが、帰りの車の中まで握りしめていたのです。なんの気なしに主人の運転する座席の肩部分に置くと、主人は突然腰が痛くなってきたと訴え出しました。
無事に帰宅することはできたのですが、家の電化製品の動きが悪く、何かがおかしいと気づいて道子先生に相談すると、石は土地の記憶を持っているそうで、石からの影響であると知りました。石のあった墓は平家の将軍の墓で、かつての戦国時代、落ち武者となってその地に逃げて暮らしていたということでした。そのお墓で般若心経を唱えたものですから、抱えている苦しみを知らせてきたのでした。軽率な行動をお詫びし、石をお塩で一晩清めて改めてお祈りして、翌日戦に関わっていた川へと戻しに行きました。この一件は、私が普段見えている世界と見えない世界が影響し合いながら、共に存在している事実を身をもって知らせてくれた出来事でした。
それから私は、大上先生と道子先生から、見えない世界とのかかわり方を真剣に学び始め、「自分の力」で生きるのではなく、神様と繋がる生き方へと歩みを進めていったのでした。不思議でもなく、怖いでもなく、私たちは見えない世界の上に見える存在として生きているのですね。
カルマを解き始めてからの私と家族の変化は、次へと続きます。
土地がきっかけで起こった義実家との亀裂、明るいその後〜
ご先祖様のこと、カルマのこと、神さまのことを徐々に実感し始めた私に神さまが与えてくれた次のテーマは、義理の実家に向き合うことでした。
今でこそ、週末に義理の実家に遊びに行き両親とご飯を食べたり、お酒を飲んだりと色んな話をして盛り上がる関係になり、こどもたちの学校のお迎えなども協力していただきかなり助けてもらっています。孫がくると嬉しいと喜ぶ義両親にすっかり甘えている嫁です。そんな私が、遊びに行く度に続けてきたことがあります。義実家の目の前にある竹に縁ある神社に感謝を伝えに参拝することです。
はじまりは9年前。義理の実家が、新たに家を建て直すかどうか私たち家族も一緒に暮らすかどうかというテーマが湧いてきました。義理の実家は、祖父母の代に求めた土地に暮らしていました。亡き祖父と、戦後の苦労を乗り越えた先にようやく求めた土地であると祖母がよく話をしていたので思い入れのある地であることは伝わっていました。
その一方で、大地に残るカルマ、大地に残る歴史的情報や人の想念などがその後住む人にも影響を与えることを知っていた私は、家を立て直す前に、まずは道子先生に大地の御神託をしていただくことにしました。
結果、そこは急な坂の下にある土地であり、様々なエネルギーも集まって澱んでしまう土地でした。エネルギーは本来循環した方がよいのですが、滞ってしまう土地はかなりの期間清めていく必要があり、これから未来のことを考えると
新たなよい土地を探すことを選択した方がよいよい場所が見つかりますとのことでした。
また、「すぐそばまで富士山の溶岩が流れて岩盤となっていて、かつて亡くなった方々の御霊も埋もれている。その大地に滞ったエネルギーの影響でイライラしたり、疲れやすくなったり、病気になりやすくなる。」
隣家の家系のエネルギーが強い、苦しいと聞き、義実家の当時の様子と御神託の内容が私の中でピンと繋がり、これは大変!!!とスイッチが入った私は、義理の両親にも家族に伝えてみようと動き出します。
ここから、私と義実家の間に小さな亀裂が走りました。
まず主人に伝えてみますが、実家に任せるしかないもう触れない方がいいという意見でした。自分の実家を守りたい気持ちも受け止めましたが、今後、私たちも一緒に住む可能性があるならば真剣に向き合った方がいいと思い、1ヶ月後には、義実家の大地の儀を受け清めていただきました。
ただ儀の際に隣家の大地までは清め切れなかったので、儀の翌日に、自分の家で塩盛りするように教えていただき、
主人にも声をかけて2人で祈願しました。あからさまに抵抗感のあった主人ですが、祈り言葉も般若心経七巻も一緒に唱えていました。意識までには上っていないけど、主人の中にも、隣家との関係に対して感じることがあったのだと思います。
すると数日後、隣家の息子さんが夢の中に出てきて、採れたての野菜をかごいっぱいに抱えて持って来てくれたのです。とても嬉しそうな笑顔をしていました。息子さんは施設に暮らしていたので私はお会いしたことはないのですが、
大地を清めたことにありがとうを伝えに来てくれたのがはっきりと分かりました。そんな出来事も後押ししてくれて、
義母にも大地のことを伝えていきました。
どう受けとるか、どう思われるかと緊張している割に、伝えなくては!という妙な使命感に溢れていました。義母は下を向いて、「うんうん」と頷いてましたが、言葉はなく、戸惑いの表情をしていました。未知の話にこわさも感じたことと思います。その後、義姉が実家に帰省した際に、土地と新しい住居の話があがりました。
これからの時代は、両親と一緒に住むよりは離れた方がお互いにとっていいのでは?といったアドバイスでした。実際に義姉もそうしていました。ただアドバイスの向こうに緊張感のようなものも伝わってきていました。(私が緊張していたからかもしれません‥)
私の中では、義両親と同じ地で暮らす選択肢もあったので、その場は、お話を受けとって終わりました。でもその後、主人を通して、義理の実家から「香苗ちゃんとは、しばらく距離を置いた方がいい」と言われてしまいました。ショックで涙が溢れてきました。
私の中では、義実家との関係や未来が善い方向に動くようにと願っていたのですが、結果、怪しく恐れさせてしまい
距離を置く形になることになり、なんとも言えない状況でした。私やってしまった‥わからなくもないよ…このまま離婚か‥どうしよう‥どうしよう‥どうしていけばいいのか‥結局、その後3ヶ月以上は、義実家に足を運ぶことはできませんでした。
でも、じっとはしていられず早朝、寝ている息子を起こさないようにそっと出かけて、 義実家の目の前にある神社に参拝に通いました。義両親に見つからないようにドキドキしながら、私の伝え方を謝罪しまた繋げていただけるように最善を祈り続けました。その期間、主人は、私と義理の実家との関係ついては言及せず、これまでと変わらずに実家も家庭も大事にしてくれていたことには救われました。
それからどのようにしてまた義実家に行けるようになったかは忘れてしまいましたが、義父が声をかけて繋いでくれように覚えています。色々とありましたが、結果的には当時暮らしていた土地にそのまま新たに家を建て直すことにし、
私たちとは別々に暮らすことなりました。その頃、義実家との関係性はまだまだよかったとは言えませんが、自分で蒔いた種は自分で刈り取ること時間がかかっても改めて関係を築いていくことを決めて結果は委ねて私に出来ることをしていきました。
義実家に寄る度に神社に参拝に行き、日々大地と大地に暮らす方々を守ってくださっていることに感謝を伝え続けました。出来る時には、境内に溜まった落ち葉の掃き掃除をさせてもらいました。するとしばらくして暗く澱んでいた神社の境内が整備されることになり、明るい光が入るようになったのです!神社の名前にも使われている竹も綺麗に植えられたのです!
大地の儀を終えて、重たかったカルマが清まっていき、神さまが降りてこられたのを見せてもらいました。色々あったけど、信じてきてよかった‥と安堵しました。そして、義実家は古い家を壊して新しい家を建てて暮らし始めています。義祖母は、90歳過ぎに自分の部屋を持てて喜んでいましたし、義両親も新しい家での生活を楽しんでいました。また義姉の家族とも笑顔で会えるようになりました。
それから数年が経ちましたが、先日、義父がお酒を飲みながらこんなことを言っていました。
「今、この家に住んでいて、香苗ちゃんたち家族とも週末に会える距離がちょうどいい。前に、一緒に住む選択もあったけど、おじいちゃん自身にとっても香苗ちゃんたち夫婦にとっても孫との関係においてもこの形が一番よかったと思う。」その言葉に、深く頷いていた私です。
何が正解かはわかりません。また別の選択もできたかもしれませんが、その時私がとれる最善は尽くしたので、今が一番最善の形なのです。当初の私の使命感からくる行動が義理の家族との間に亀裂を走らせた事実は変わりません。でも、祈り、出来ることを続けて、今こうして家族がそれぞれの場で笑顔で幸せに暮らしていることも事実です。
神さまが応援してくださっていることも節目ごとに表してくださっています。
私は、義両親の穏やかな生活と笑顔を思うと伝えてみたことに後悔はありませんし、大地のカルマを清めることで義実家とも真剣に向き合えたことに感謝です。
これからも、私に出来ることを淡々と続けて家族の平和と明るい未来を祈っていきます。そして‥気づきの出来事もあったので、載せておきます。一時期、もう安心して義実家の大地に毎月の塩盛りをしないでいたら、実家の目の前で義父の車と自転車の事故が起きてしまいました。怪我はなく、小さな衝突で済んだのですが、
「決めたのならば、清め続けなさい!
大事な実家の大事な大地です!」
と、神さまから厳しい愛のメッセージでした。
今後も、大地への感謝を持ち続け、塩盛りも続けていきます。
※この体験談は2022年に執筆されたものです。
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