「再生誕とカルマ」の法則

はじめに

私たちが幸せになるためには、本質的にどう生きたら良いのか?

その答えは、正しい人間関係に鍵があると思います。人間関係を一言で言うと「縁」です。その真理は、私たちは何度も生まれ変わるという再生誕の法則、輪廻転生することの認知と理解の中にあります。一人一人が人生を歩むにあたって、この法則がいかに大切か、真の働きを、転生している魂の完成への旅路としてお話しします。

私たち一人ひとりが歩いている進化の旅路は、全宇宙を支配する法の下に行われています。全宇宙を通じてすべてが、相応関係の法の下に同様の進化の法則に沿って進行しています。地球上の人類だけでなく、他の惑星、太陽系から銀河系に至るまで、すべての命ある存在は法の下に進化の法則に沿って生きているのです。

私たちは本質的には魂であり、個人のレベルでは神性を表しています。そしてその神性を顕示するために私たちに提供された過程が再生誕(転生輪廻)です。なぜ、何度も生まれ変わるかというと、私たちの人生は進化の過程において、動物と霊の間の過渡期の相にいます。つまり、人とは動物の肉体の中に霊としての魂が宿っているということになります。再生誕は、神が「私たち=代理者」を通して、正反対の極「物質=肉体人間」に下降し(宿るということ)、そしてその肉体人間を、完全に神の特性を浸透したものとして、再び御自身の下に戻すことを可能にする過程です。再生誕は魂の乗り船である肉体人間が霊存在としての魂の目的を遂行するための機会です。

私たち魂自身の特性が、この世における人間生活の中で「肉体的、情緒的、メンタル的」に完全に実演されるようになるまで、次々とその乗り船である肉体人間をつくり変えては再生誕してくるのです。ある一生は男性であったり、ある一生は女性であったり、何度も何度も繰り返されていくにつれ、魂は次々と肉体人間を通して「己を愛として表現」できるようになります。

その人はより正しく、より完全に魂の計画と目的を顕現するようになります。人生における目的と意味について、私たちが知っていることはすべて魂のレベルから来るのです。魂の特性は愛し、奉仕することであり、己を神の大計画のために犠牲にすることです。愛と犠牲を通して奉仕すること以外に、魂は目的を持ちません。実際、魂の自己犠牲を行う意志が肉体として転生させるのです。過去生の縁から魂は集団で転生してきます。

再生誕とカルマについて

再生誕の過程の中で、二つのことが同時に起こっています。一つは魂がその器(肉体、情緒体、メンタル体)を徐々に霊化することです。正しい見方をすると、進化の道を歩む人生とは、私たちの低位の自我を高位の魂のために徐々に放棄していく過程です。魂は数えきれない転生の旅を繰り返し、生まれ変わってくる必要が全くなくなるまでこれを続けます。魂にとって帰途の旅路とは物質界、情緒界、メンタル界の制限から己自身を解放していくことです。それは、魂がその器である肉体、情緒体、メンタル体を、魂のエネルギーと特質で満たしていくことによってなされます。

もう一つは大昔のカルマを片付けるために、魂が意図的にその器である肉体人間に重荷を課すことです。カルマとは、「業・因果応報・作用反作用・与える者が与えられる・自分が行ったことが自分に返ってくる」法則です。

私たちの一つ一つの行動が原因を始動させます。これらの原因は結果を招きます。その結果が良いにしろ悪いにしろ私たちの人生を形づくります。私たちは一瞬一瞬、自分の人生をつくっています。今も、過去も、将来もです。私たちの思考と行動によって始動する原因が、遅かれ早かれ結果を生み、それが私たちに返ります。それを私たちは「良い」 カルマとか「悪い」カルマとして経験します。心地よくないときには、それを悪いカルマだと言います。それが良いカルマであり、人生が快適であるときには気付かないのです。なぜなら人生をそのように期待するからです。人は悪いカルマのときだけ、カルマについて語ります。私たちは「悪い」カルマよりも、「良い」カルマの方をたくさん持っているということを覚えておくことが大切です。

魂が転生の体験を重ねながら進んでいくにつれて、その反映である肉体人間はよりいっそう重いカルマを背負わされます。その体験のなかですべてが、つまりすべての低位の側面が高位の霊的実在のために放棄されます。人は高度に進化していればいるほど、より大きく奉仕することができ、世界により大きく役立つことができます。

さらに、魂はすベての転生に特定の目的を持っています。その転生において魂の意図を達成するための可能性を提供するような魂の器、つまり肉体、情緒体、メンタル体を持った肉体人間をつくります。その目的は達成されないかもしれないけれども、魂はその可能性を提供します。魂はいつも希望のなかに生きているのです。

究極の目標は個人的なカルマをつくらないように人生を送ることです。完璧になるかまたは死ぬかのどちらかによって、これをすることができます。完璧になる方が死ぬよりも面白いですから、ほとんどの人は魂の目的を達成することを試みるという前提を受け入れます。そしてそれを成すために、人生最後のぎりぎりの瞬間までこの世に留まろうとします。このようにして、私たち自身が過去世で、そして今世でこしらえた重荷(カルマ)に取り組みます。意識的にしろ無意識的にしろ、完璧になろうと努力します。

カルマとは

カルマというと、すぐに個人のカルマを思い浮かべがちですが、それだけでは「よしのズイから天井を覗いているようなもの」です。カルマには、個人のカルマ、家のカルマ、民族のカルマ、国のカルマなど縁の異なる種類があり、それらは私たちの人生に影響を与えます。人間のカルマは多重で複雑です。多くのカルマが複雑に絡みあい、重なりあって、私たちを一つの存在としてこの世に顕現させて、様々な生き方を方向づけているのです。

例えば、まず親子のカルマは、父と母という縁を得て、私たちはこの世に誕生してます。親子の関係においては、いわばお互いがお互いを切っても切れない縁、その意味では最も根の深い結びつきの縁(カルマ)です。次に夫婦のカルマがあります。それ以前に兄弟、姉妹のカルマも考えられますが、兄弟は他人の始まりともいわれるように、いずれは離れていく縁ですから、一般的にいっても、それほど強い結びっきを持っているものは少ないようです。ただ稀には強力に結びついた間柄もありますが、夫婦の因縁の方がずっと深いです。夫婦の結びつきには様々なパターンがありますが、その二人の間に子供ができれば、再び親子の関係が生じ、それが子々孫々と続くわけです。それを縦の関係として眺めると、今度はそこに家系の、つまり家のカルマが浮かび上がってくるのです。皆さんはいい家のカルマに支えられているから、今こうして生きていられるわけです。自分も生きていてまた他人も生きている、この日の当たっている現実しか目に入りませんから、それが当然だと思っていますが、その蔭の部分では、結婚できずに一生を終ったり、結婚しても子宝に恵まれなかったり、あるいは可愛い子供がいながら、その子を道づれに一家心中をしたりして家系が跡絶えてしまうという、日の当たらない現実のあることに気づかなければいけません。そして根があって初めて現在の私たちもあるのですから、蔭の部分をないがしろにしないで下さい。

家のカルマと土地のカルマは非常に密接なつながりのある場合が多いのです。やはり家というのは土地に縛りつけられているからでしょうか、少くとも霊的にはそういうことがいえます。ですからカルマご神託のときなど、皆さんがどこで生まれたかという事さえわかれば、四柱推命やら占星術や易など知らなくても分ります。それだけ土地のカルマは強いということでしょう。

カルマの種が土地に蒔かれてあっても、日光が射さないと芽は出ません。太陽からのエネルギーがこなければ、生物は死に絶えてしまいます。これは太陽のカルマ、カルマと呼ぶよりは、小さな私たちから見れば、神の働きと考えた方がいいかもしれません。土地が産土神とすれば、太陽は大日如来、あるいは天の神様と考えればいいと思います。

このように、土地、家系、親子、夫婦、兄弟などいろいろなカルマ、様々な力が加わって個々のカルマの芽が吹くわけですから、自分のカルマがあったからといっても、実際には一つの存在として顕わになることはありません。つまり生まれてくることはできないのです。

親子、夫婦、家、土地、国、更に地球、太陽と、種々のカルマが縁となり、働きあって私たち一人一人がこの世に存在しているのです。そういうものを忘れて、個人のカルマだけが良くなるようにと祈っても、それはどだい無理な話です。

戦争中には個人のカルマなど無いのと同じで、赤紙が一枚くれば否応なく皆お国のために戦争へ行かされたわけです。国のカルマというのは、個人のカルマ以上に自己を守る力が強いのです。戦争のような場合は国の立場になって、個人の立場でみれば殺人は極悪ですが、それも善になり、人が死ぬというのは非常に悲しいことなのですが、それも国の為の戦死として喜ばしい事になるのです。国のカルマというのは、己(国)を保つためには多くの個人を犠性にしてはばからない強力な大きな力をもっています。その力に踊らされるのは個人なのです。はるかに国のカルマの働きは強力です。

何れにしても、これらの事から解るように、総てのカルマが同時に働いていて個人を成り立たせているわけです。ですから家とか土地とか国とかを離れて、個人だけのカルマを考えるのは生け花みたいなもので、すぐ枯れてしまいます。カルマとはもっと深くもっと大きなつながりを持っているのです。

このような様々なカルマの働きによって、私たちは人間として個人として生まれてきたのです。いま生きているということは、奇跡の中の奇跡だと思えてくるのです。カルマを解消しながら与えられた命を生きることは、霊的成長の基本なのです。与えられた命を生きることは尊いことです。

カルマを解消するには 

このようにして、我々自身が過去世で、そして今世でこしらえた重荷に取り組みます。意識的にしろ無意識にしろ、完璧になろうと努力します。我々は、人生の成り行きに対して実際に何もコン卜ロールすることはできません。我々がコントロールすることができるのは、成り行きに対する我々の反応の仕方です。ですから目指すべきことは、人生の成り行きから達観することを学び、我々自身を統御することです。このようにして一生の間にカルマの重荷に対処します。

これは、痴呆的無感覚で座したまま何もせず、したがってカルマもつくらないということではありません。我々ができることは、あらゆる状況であらゆる場合に、その成り行きから我々自身を引き離すことです。成り行きは向こうにあり、我々はこちら側にいると考え、感情的に反応しないことです。このようにして、徐々に人生との関連において非個人的になり、成り行きに対して超然とし、カルマが「良い」とか「悪い」とかに無関心になることです。

それではどのようにしてカルマを取り除くか、どうやってこれに対処するか。

人にあげることはできません。重すぎるし、誰も欲しがりません。余剰カルマの売り出しはありません。皆が十分過ぎるほど自分のカルマを持っています。それではどうしたらよいか。私たちの活動を、喜びや幸せを制限するこの重荷にどう対処すればよいか。

それには非常に簡単な方法があります。奉仕と呼ばれます。奉仕はカルマを取り除くために、特に優れた方法です。いや取り除くのではなく燃焼してしまうのです。それは次のような過程で行われます。

つまり、あなたは奉仕するにつれて、あなた自身にエネルギーを引きつけていきます。エネルギーを与えることによって、エネルギーを得るのです。それが法です。基本的に、それが愛の法則であり、我々の特性を支配しており、それなしに世界は存在しません。それはまた別の意味ではカルマ、原因と結果の法則そのものです。あなたが愛を与えるにつれて、原因を始動させ、その結果として愛が返ってくるのです。

ですから、カルマという法そのものがそれ自体の成就を始動させます。奉仕するにつれて、我々は愛を具現します。愛を具現するにつれ、我々は法によって愛を得ます。それがその個人を強くし、力を強めます。己のカルマに対処することができるのです。人が愛と奉仕の道をさらに先ヘと進むにつれて、自動的に人生の成り行きの影響から自分自身を引き離すようになります。様々な出来事は起こります。しかし、それが心理に及ぼす影響はますます少なくなります。東洋では「あ~、それはカルマだ」という表現をします。フランスでは「あ~、それが人生さ」と言います。「それが人生さ」と気軽に言えるような態度を徐々に培っていかねばなりません。もし良いことがあれば、「それが人生さ」ということは容易です。もしそれが大変なことであり、苦痛があり、我々を不幸せにするような時にも、「それが人生さ」なのです。そのような無執着な態度で生きなければなりません。

このようにして過去からのカルマの重荷を燃焼させることによって、より大きな進歩が遂げられることを魂は知っています。我々を拘束するもの、引き止めるものは、我々のカルマなのです。我々が背中に背負っているカルマという重荷です。カルマに対処するために行う努力が、成長の時のために道を整えるのです。このようにして、我々の発展は周期的に進行します。

人はカルマをいつも過去世からのものと考えます。

しかし昨日の、一昨日の、先週の、先月のカルマはどうでしようか。

今日、明日、そして来世と、一瞬一瞬我々が対処していく行動と反応の継続なのです。我々がお互い同士との、そして我々がその部分であるところのあの総体との正しい関係に入るまで、我々は悪いカルマをつくり続けていくでしよう。カルマの法則と再生誕の法則に正しく対処し、正しい関係がもたらす恩恵を認識することが重要であり、有益であります。

再生誕の法則と因果の法則(カルマの法則)との関係を正しく理解することによって、我々はすべての活動において無害であることの必要性を知るようになります。

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